ちっぽけな権利

つい先日、大阪北部で震度6弱の地震が起きた。ちょうど朝方で、起きようとしていた時だった。寝起きの頭でもこれはやばい、と思った。幸いけがはなく、家具等も倒れなかったものの、食器棚の扉が開き食器の多くが割れて床に散乱していた。食器のかけらを拾いながら、テレビで被害状況を見ていると、通学・通勤途中の人々が立ち往生していたり、火災が起きたりしていて大変なことになっていた。

午後になり、気分も少し落ち着き、ガスも自分で止まっているのを解除できて、自分たちの場所はとりあえず大丈夫らしいということが分かった。しかし、他の地域ではインフラが止まっていたり、建物に大きな被害が出ていたり大変な状況が続いていた。倒れてきたブロック塀の下敷きになって亡くなった小学生の報道もあり、本当に痛ましかった。しかし、あのとき朝ごはんを食べるために台所にいて、食器の洪水を浴びていたら、と思うとぞっとした。もしあのとき~していたら――有事の際には、本当にわずかなタイミングの違いが、全てを変えてしまう。

地震から約1週間経ち、まだまだ被害が続いているところも多いが、世間はひとまずの平穏を取り戻した。ワールドカップでの日本の勝利もあり、メディアはサッカー1色だ。しかしまだこれから余震があるかもしれないし、今後起きるであろうより大きな地震に備える意識は高まった。そして、明日何が起きるか分からないことを改めて思い知らされた。そうは言っても、日常の中で死を意識することはまずないし、そういった思いも徐々に薄まってしまうだろう。こういった意識を持つことは、思っているよりもずっと難しい。



これまでに二度、死を意識した経験がある。一つは、数年前、長く会っていなかった幼馴染が亡くなったことだ。小学校の頃の友達で、当時は飽きることもなく、ひたすら一緒に遊んでいた。中学になるとき、その友達は遠くに引っ越して、それ以来ずっと会っていなかった。年賀状のやりとりはしていたが、普段はたまに思い出す程度で、だんだんと自分の中での印象は薄くなっていた。会ってみたいとは思うこともあったが、もう二度と会うことはないかもな、という気もしていた。そんな折、その友人の母から突然訃報が届いた。あまりに突然のことで、信じられない思いと悲しみで頭がぼーっとした。今の自分から遠い人であっても、幼い頃の友達は、自分の中で思っていたよりも大きな存在だったことに気がついた。そして、自分の知っている誰かが、ふっといなくなってしまうことを時々想像することはあっても、その悲しみの大きさは決して想像できないことも身に沁みて感じた。ずっと会っていなくて、これからも会うことがなくても、自分の中でその人が死んだことにはならない。もう世界のどこでも生きていないということは、自分の中に大きな深い空白を残す。

もう一つは、自分が病気をして、もしかして死んでしまうのかも、と思ったときだ。そうはいってもそこまで重くはなかったので、大丈夫だろうとは思っていたが、不安はなかなか拭えなかった。病院にはもっと大変な人もいて、どうやってその不安に耐えているのだろうと思った。その気持ちを推し量ることはできても、そのまま感じることは決してできない。寄り添ってくれる人がいることで救われることもあるが、自分の苦しみはどこまでいっても個人的なものである。死というものは、本質的にそういうものだと思う。普通の感受性の人には、自分か、自分のごく近くの人の身に起きたことでしか死というものを上手く捉えられない。一日一日、死を意識して生きていることに感謝する、そういう言葉の前には厳しい現実がある。



そんなことを考えていたとき、漫画「3月のライオン」で、ある言葉に出会った。

”「自分もいつかは死ぬんだ」って事を忘れて呑気に日々を送れてしまう事・・・ それって人間の持っているちっぽけな権利の一つなんじゃないかなって”

ああ、確かにそうかもしれないな、と思った。羽海野先生の言葉は、一字一句の心への浸透力みたいなものが強くて、自分の心の詰まっているところを優しく洗い流してくれる。「ちっぽけな」でも大事な「権利」を行使して生きていくしかないのかな、と思う。でもこの言葉は、実家が葬儀屋の登場人物の台詞で、日々死に接しているからこそ出てきた言葉だろうし、他の登場人物も現実と向き合いながら、毎日懸命に、ひたむきに生きている。


最後に、印象に残っている言葉をもう一つ。

”人が死ぬことは特別なものではない、でも大事なこと”

伊坂幸太郎の小説「死神の精度」で出てくる言葉。ちっぽけな権利を大事にしながら、死も大事にして、日々と向き合う。それが自分たちのできることであり、やるべきことなのかもしれない。

コメント