大問1.人生(配点100)

AIは悪魔か天使か――、NHKで3回もそんなたいそうな副題がついた特集が放送されるくらい、AIは世間の話題をかっさらっている。本屋に行っても、AIの能力を賛美するもの、人との対立をあおるもの、逆にAIにできないことを探して人の可能性を信じさせようとするものなど、関連する書籍が至るところで目に入る。確かに最近のAIの成果は目を見張るものがあるし、それに恐怖を覚える気持ちも分からなくはない。それにしても、あらゆるところでやりすぎていて、正直食傷気味。NHKスペシャルに関しては、Nスぺってこんなものか、という感じで(※個人の感想です)いったいいつまでこのブームが続くんだ、と思ってしまう。

そもそもArtificial Intelligence(人工知能)っていう名前が大げさなんだよな。ただのアルゴリズムで知能を持っているわけじゃないのに、名前のせいで人造人間のような印象を与えてしまう。それが今の世間の誤解につながっているといっても過言ではないと思う。ちゃんと言うなら、「機械学習」、学習する機械といってもいい。これは、人間が全てを指示するのではなく、与えられた大雑把な目標に対して(場合によっては与えられないこともある)、機械が自動的に自らを修正して近づいていく手法全体を指す。自動的に、というのがポイントで、人の手が極力を介されないようになっているため、あたかも機械が知能をもったように見える。しかし実際は、人間のようにひらめきや論理的な推論をもとに正解に近づいているのではないため、知性を持っているとは言い難い。それでも時に人をしのぐ成果をあげているのだから、それも一つの知性・知能の在り方だと言ってもいいんじゃないか、という意見もあるかもしれないが、現在の技術では知の根本的な要素である推論が行えないため、応用範囲はかなり限られる。現在では3歳児の知能にも及ばず、賢めのアルゴリズム、くらいの認識が間違いがないと思う。

と、またいろいろと御託を並べてしまったが、研究に使えるかな~くらいの軽い気持ちで、ここ数ヶ月ちまちま勉強したり聞きかじった話を受け売りしただけ。AI、機械学習について真に理解しているわけではないので、正確でない記述もあるとは思う。上で述べたのはあくまで個人的な見解。実際、AIは特定の分野では人をはるかにしのぐ能力を持っていて、現に利用されているし、近年の開発スピードからしてシンギュラリティが訪れる可能性は否定できない。それが起きたときのことを想定して、今から考えることはもちろん重要だ。ただAI対人の議論は本屋やネットでもあふれかえっているし、特に専門的な見解もないので、この場ではこれ以上御託は並べない。

そういうわけで以下は全部個人的な話。最近AIについて調べたりしているのは、単純な興味もあるけど、この先AIに関する知識やスキルがいろいろ使えそうというのが大きい。AI、というよりも機械学習の考え方は、単に研究や就活というだけでなく、けっこう目から鱗で、最近の自分の考えのキーになっている。

機械が学習するためには、問題とそれに対応する正解が対になって存在しなければならない。それらの間の対応付けを学ぶことによって、機械は未知の問題にも、正解に近い答えを導き出すことができる。当たり前のようなことだが、正解が初めに設定されていないといけないというのが重要な点。これは機械学習という狭い分野に限らず、一般的な問題設定の肝でもあるから、わざわざ機械学習の話を持ち出す必要はないのかもしれないけど。でも、機械学習に関しては正解設定が重要なことで、それが正しく十分な量設定されなければ、期待する結果は得られない。

先にも言ったとおり、正解、すなわち目的やゴールを設定するというのは、一般的な問題解決の手法にも当てはまる。まずこれを設定しなければ、どこに向かって進んでいけばいいのか分からないわけだから。そもそも正解を設定しなければ、問題が解決されたかも決まらない。でも現実世界では、最終的なゴールや目的を決めずに物事を始めてしまうことが多い。それは研究でも、ビジネスでも、日常の細かなことでも。だから、往々にして、途中でどこに向かって進んでいったらいいのか分からなくなって、途方に暮れてしまう。まあいちいちゴールを設定するのはめんどくさいし、先が見通せない中ではゴールを設定することがすごく困難なこともある。そういうことは問題の大・小に関わらずたくさんある。

そう思うと、人生って正解が設定されていないから、究極の無理ゲーなんじゃないか(急に大きな話になる…笑)。今まであまり意識してこなかったけど、人生が難しいことはこういうところに起因していることが一つあるのかな、と思った。いい会社に入って、好きな人と結婚して、余裕ある生活を送る…そんなフワっとしていて、本当に正解かも分からないものをゴールにしていいのか。仮にそれを達成しても、人生をクリアしたことになるのか、そのあとはどうなるのか…。しかも誰かに決められるのではなく、自分で正解を設定しなければならない。こういう議論も、人生をゲームと捉えるという前提の上で成り立つわけだし、それがどうなのかは分からない。

まあ人生の意味についても特に話すことはないし、そういった類の話こそ世の中に溢れかえっている。人生の指南本、みたいなものをたくさん読んでいるわけではないけれど、いろんな主張がある中で、最近潮流が変化してきているような気がする。(「好きなことだけして生きていく」みたいな?笑) 結局、そこかーという気がしないでもない。

何にせよ、究極の無理ゲーを前にしてできることは、もっと簡単な問題設定に変えるか、ゲームという概念を変えるしかない。普通は前者を選択する。それは言ってしまえば人生の小問を解き続けているようなもの。でも良問ならば、解いて、解いて、解き進めた先に、新たな展望が開けるようになっているのかもしれない。まさに、神のみぞ知る。神様を信じて解き進めるか、神なんていないと言って自分が神になるか。どちらを選んでも、達成するのはこの広げすぎた話にオチをつけるくらい難しい。

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