JOKERのいる世界

今話題の映画「JOKER」を見に行った。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、全世界で大きな興行収入を上げているこの映画、やはりそれだけのことはあった。アメコミのバットマンシリーズに登場する人気の高い悪役「JOKER」が生まれるまでを描く。心優しい男がいかにして悪のカリスマとなったか、というのが物語の大筋だが、そんな単純な話でないところが本作の面白いところ。以下ネタバレとなるのでまだ見てない方は読まないでくださいね。既に見た方は、こちらブロガーの方の考察記事をどうぞ。正直1回見ただけでは分からなかった深ーいところの解説をしていて、そういう映画だったのかと膝を打った。ならその記事を読めば済む話だが、そこから感じた個人的な感想を以下に書きたい。

「【ネタバレあり】『ジョーカー』解説・考察:誰もが秘めるジョーカーという幻想を信奉する可能性 | ナガの映画の果てまで」
https://www.club-typhoon.com/archives/2019/10/05/joker-film.html

まず映像が美しい。荒廃した薄暗い大都会の様子は、JOKERとなる前の主人公アーサーの辛い状況と相まって、胸に迫ってくる。重苦しいBGMやそれを馬鹿にするようなポップなコメディ風の歌も、アーサーを取り巻く世界の苦しさやおかしさを際立たせる。そして皆が言っているように、アーサーを演じるホアキン・フェニックスの演技が素晴らしい。リアルに生きているように、切実に、そして理解されえない狂人であるJOKERをやってのけるのは並大抵のことではない。ダークナイトのヒース・レジャー演じるJOKERもすさまじかったが、ホアキンのアーサーはそれと通じるところもありながらも、より多層的な人格を見せてくれた。

JOKERが生まれた背景に、追い詰められていく貧困層とそれに見向きもしない富裕層の格差があったというのが、まるで現代社会を映しているようだと話題になっている。実際、貧困層の住人がデモを行う中、そのすぐそばで優雅に映画を見ている富裕層の姿は印象的だ。そして金持ちのエリートを死傷させた貧しい犯人をピエロと馬鹿にする権力者の姿も、現代のリーダーの姿と重なる。そこにあるのは、なかったことにされる社会の闇、それへの嘲笑、そして無関心だ。さらに、映画では悪どい富裕層とそれに対抗する貧困層という単純な二元構造になってはいない。貧困層もまた、暴力に訴え、JOKERという悪をカリスマとして祭り上げる幻想を見ている。その姿はまさにカリスマと呼ばれる指導者を信仰する現代の人々と同じだ。ここらへんの話は上記のブログに詳しい。その考察に付け加えて、信じる対象を持たない多くの人―それは貧困層に限らない―は自分以外の人、もの、社会に対する圧倒的無関心によって平静を保っているように思う。

では翻ってJOKERはどうか。JOKERは何も信じない。自分は自分の主観に従っていることを理解しており、上っ面のきれいな幻想を崩そうと世界に揺さぶりをかけてくる。その揺さぶりによって世界の善と呼ばれるものがあっけなく滅びそうになるところを、すんでのところで民衆が食い止めたのがダークナイトの世界だった。「JOKER」で貧しい民が反乱しJOKERを神とした後は、世界は悪に飲み込まれてしまうのだろうか。そこで、問題のラストシーンだ。JOKERがジョークを言う含みで、今までの現実と虚構の境界をさらにぼやかしてくる。JOKERがいかにして生まれたかは誰にも分からない。JOKERはJOKERでしかないのだ。理解できないところをもつ、それが悪役の魅力なんだなと思う。

コメディ映画のような終わり方で、何とも言えない感情が残った。果たして今自分が生きているこの世界は狂っていないと言えるのだろうか。この世界のどこかで、JOKERが生まれようとしているのではないか。世界を救う(あるいはその代わりに誰かを助ける)ことがテーマの作品が多いが、世の中はそんなに簡単ではない。人々はまさに虚構の中を生き、世界を救う幻想を見る。その世界の中心にいるJOKERは、実体がないにも関わらず全てを吸い込むブラックホールのようだ。そして、一度空いてしまった穴はふさがることがない。そんな状況をまるで喜劇のように見せる本作はしゃれていて、見る人の予想を軽々と超えていく。この作品の非凡さはそこにある。

コメント