気まぐれメランコリック

4月も半ばになったが、年明けから続く新型コロナウイルスとの戦いは、徐々にフェーズを変えながら日増しに深刻さを増している。今から思えば1月、2月、3月の日本での意識・取り組みは甘かったと言わざるを得ない。(今でも十分とは言えないが。) 韓国やイタリア、ニューヨークなどは感染拡大初期のスピードが速く、ショッキングな医療崩壊の状況は日本にも日々伝えられていた。そして、それらが日本にも起こり得る事態だとも、専門家は国民と政府に訴えていた。しかし、思い切った政策が打ち出せないまま今の状況に至り、現在進行形でコロナによる人命被害、経済損失が広がっている。それだけでなく、人々の目に見えないソフトの部分にも、コロナは確実に病魔の手を伸ばしている。

長引く各種の制限によるストレス、終わりの見えない不安。これらにはどう対処すればいいのだろう。企業や著名人は、コロナとの戦いを掲げ、人々を癒し鼓舞する施策やメッセージを打ち出している。学者の言説には、今まさに人々の連帯が問われており、失われつつあったつながりを取り戻すチャンスだというものもあった。こういった動きや言葉は希望だと思う。しかし、肝心の人々による言葉が抜けている。政治家のメッセージだ。

コロナに対する、日本のとりわけ国政の政策と政治家の発言は混迷を極めた。後手に回った政策や、メッセージを読み上げるリーダーの空虚な姿からは、真に国民のことを考えていないということが透けて見える。日々変わる状況や未知のウイルスによる病態のために、その対応を全て批判することはできない。しかし、意思決定に至った経緯や現状の丁寧な説明、国民に痛みを伴う要請をする真摯な態度がなければ、人は為政者を信じることができない。現政権のこの体質は、集団的自衛権、モリカケ、桜を見る会を巡る問題と、もうずっと続いている。これまでの問題のときは、うやむやにし支持を取り戻した、と政権は考えているかもしれない。確かに、支持率の上では一定の水準を保ってはいる。しかし、それらを通じて人々の間には、真っ当なことをしなくてもいいという認識が潜在的に広がってしまったのではないだろうか。徐々に失われたモラルの意識や相互信頼は、病のように人々を内側から確実に蝕む。期待すれば裏切られるから最初から期待しない、そういう在り方が随分と定着してしまったように思う。

一方外に目を向けると、ドイツでは感染者が急増し、接触制限などが行われている。日本と同様に飲食店や文化施設が閉まった結果、多くの人々の収入が途絶えている状態だ。それに対してドイツ政府はスピード重視で業種を絞らず補助金を出すと発表し、先月末から申請を受け付けている。ドイツ在住の小説家多和田葉子さんは朝日新聞(4月14日)の寄稿で、政府の政策によって弱者や文化が大切にされていると実感し、ドイツ国民の間にも難民などの弱者を守ろうという雰囲気が広がっていると言う。その中で、メルケル首相について以下のように述べられている。

テレビを通して視聴者に語りかけるメルケル首相には、国民を駆り立てるカリスマ性のようなものはほとんど感じられない。世界の政治家にナルシストが増え続ける中、貴重な存在だと思う。新たに生じた思い課題を背負い、深い疲れを感じさせる顔で、残力をふりしぼり、理性の最大公約数を静かに語りかけていた。

理性へ静かに訴えかけるリーダーとそれを受け止める国民、そして両者を結びつける信頼。今の日本にもう失われてしまったものを考えると憂鬱になる。しかし憂鬱に沈むだけではいけない。威勢のいい上っ面の言葉はいらないと声を上げ、どこからか聞こえる真摯な声に耳を澄まし、自らも言葉を大事にしよう。信頼の欠如が私たちを内側から蝕んでしまわないうちに。

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